今年の夏に読んで、すぐにレビューしようと思って今になってしまった。
沢木耕太郎のスポーツ・ノンフィクションでひとつ選べといわれたら、『敗れざる者たち』を挙げる人が多いと思うが、真の意味での代表作はこの『一瞬の夏』だと思う。
『敗れざる者たち』に収められた一編「クレイになれなかった男」は、沢木自身がはじめて強い自らの意志で描く対象を選んだ作品である。「クレイになれなかった男」というより『あしたのジョー』のように、燃え尽きることの出来ないカシアス内藤のという男の姿に沢木は自分の姿を投影する。当時の沢木は、東京放送の業界紙でルポルタージュを書いていた。富士銀行を入社1日目で退職し、なんの伝手もなくない状態で文筆業を生業として、それなりの作品を送り出してきた沢木と、混血児として生を受けながらも、ボクシングに出会い東洋チャンピョンまでのぼりつめたカシアス内藤。しかし、その与えられた戦場で全てを燃え尽きされるような達成感を感じ取れないもどかしさ。そして、戦場という場において、冷徹になりきれない”やさしさ”。「クレイになれなかった男」におけるカシアス内藤に対する沢木の苛立の感情は、そのまま沢木自身に対する感情であり、”クレイになれなかった”のは他ならぬ沢木自身でもあった。
沢木は「クレイになれなかった男」を執筆後、しばらくしてカシアス内藤の世界戦への足がかりを作ろうとして奔走する。しかし、それはカシアス内藤の逮捕によって水の泡に帰してしまう。その後、すべてにおいてやる気を喪ってしまった沢木は、デリーからロンドンまでの乗合バスによる旅行に旅立ってしまう。それが、沢木の代名詞ともいえる『深夜特急』となったことは言うまでもない。そう、『深夜特急』はカシアス内藤なしには生まれなかったのである。このとき沢木は20代半ばであった。
一方、カシアス内藤は、ダンスホールの支配人で生計を立てる傍ら、少しずつボクシングにたいする思いを再度募らせてゆく。クリスチャンになったカシアス内藤の殺風景な部屋には、聖書と、その脇にひっそりと添えられた一冊の本があった。その本は「クレイになれなかった男」の収められた『敗れざる者たち』である。カシアス内藤は、この本を聖書と同じように大切にしていたのだ。「クレイになれなかった男」は決してカシアス内藤を肯定的に描いた作品ではない。しかし、カシアス内藤はあるメッセージをこの本から受け取っていた。「いつか、いつかと思っていれば、そのときはやってくるのだ」と。
カシアス内藤はボクシング復帰を決意する。そしてそのニュースを聞いた沢木はいてもたってもいられなくなってゆく。
カシアス内藤に再会した沢木は、彼が本気でボクシングに復帰しようとしているのか確信が持てない。彼の部屋で自分の著書が聖書と同じように大切におかれていたのに気づいた沢木が、その後カシアス内藤の世界戦に向けてのめりこんでゆくのはよく分かる。
一人の人間の書いた文章が、一人の人間に影響を与え、またその影響を与えられた人間が、その文章を書いた人間に影響を与えてゆく。作家として、ルポライターとして、これほど冥利につきることはないと思う。
二人の人間が、互いに影響しあってゆく。そこにエディ・タウンゼントという老人が密接に関わってゆく。ボクシング、カシアス・クレイ、ジュン・ナイトウ、混血児としての生い立ち、様々なものが絡み合って二人の人間が大人になる前の最後の青春を生き抜く姿がそこにある。
沢木耕太郎30歳、カシアス内藤29歳。
”青春”と呼ぶには歳を取りすぎている。けれども、夢を捨てるには若すぎる。
そんな年頃が誰にでもある。本当の自分は何なのか、本当に自分が情熱を燃やせるのは何なのか。
『あしたのジョー』のように真っ白に燃え尽きたい。そんな二人にとっての”いつか”はやってくるのだろうか…。
僕の周りには、才能がありながらスポーツは学生時代で区切りをつけたという者が少なからずいる。
燃え尽きることが出来なくて、競技を再びやり直しはじめた者がいる。
選手としての目標を見つけることが出来ず、とりあえず競技生活を続けている者もいる。
そうした思いを抱える人間すべてが、この本を手に取ってほしいと思う。
輝かしく青々とした春が終わり、成熟した秋という季節がはじまる前の”一瞬の夏”
それは、人が一つの階段を昇りつめてゆく青春の挽歌でもある。
2009/12/17