【雑記】カラス口が教えてくれたこと

オリジナリティとは何なのか迷ったとき、私は次の文章を思い出すようにしている。

「その前に、そもそも創造的という言葉の定義が何なのかを考えてみる必要がある。それは他にはない唯一の概念なのだろうか。私は違うと思う。イギリス経験主義哲学のヒュームに従うなら、こうであろう。創造的なもの、独自なものとは概念それ自体が唯一のものではなく、様々な概念が自己の中で結合されてゆく過程、つまり、複合概念の成立過程がいかに他と異なる唯一のものであるかということだと。」

これは19歳のときの私が、予備校の大学別論文模試で書いた小論文の一節である。ヒュームの哲学など、ほとんど分かっていないし、すごく背伸びをしていて、鼻に付く文章だけれど、言ってることは間違ってないと感じる。今では恥ずかしくてこんな文章書けないけれど、ある意味、付け焼き刃の知識で、さも知ったような理論展開ができるのも、若さの特権なのだろう。

あの頃の「僕」は戦っていた。進学校に通うエリート達と。デザイン科卒であるというプライドを持って。

「デザインとファインアートは違う。ファインアートは、その時代の人々に理解されなくてもいいが、デザインは商業活動の上に成り立っているものなので、自己満足ではいけない。」

「デザインとは送り手であるデザイナーが作品を通じて受け手に情報を伝えるコミュニケーションである。」

「お前ら、課題でヘタウマな作品を作るな。(プロ等になって技術を身につけた上でやるのはいいが)デザインの勉強をしている間はダメだ。」

デザイン科の先生から、口うるさく、耳がタコになるほどそんなことを繰り返し教えられた。僕らがデザインを学んだ頃は、ちょうど、デザイン業界がアナログからデジタルへ移行する過渡期で、そんな時代の波は、私学のデザイン科運営や設備状況、志願者数などにも影響を与え、時代の変遷と共に、その歴史を終えた。

高校の恩師や同級生、先輩後輩が集まれば「あの頃、デザイン科がデジタル化に対応できていれば」とか「デザイン科で学んだ、アナログの作業は、デジタル化の進んだ現場では、あまり役立たなかかった」といった話に花が咲く。私自身は、デザイナーになりたいわけではなく美術系の進路の選択肢の一つとしてデザイン科に進学したので、デッサンなどは得意なほうだったが「定規を使ってカラス口で線を描く」とか「アクリルガッシュをムラなく着色する」といった授業内容については、非常に苦戦した思い出がある。今日、それらの作業は、Macと専用ソフトがあれば、誰でもできてしまうものも多くあるのだ。

少し前に、池上彰氏が日経オンラインで連載している「学問のススメ」を読んだ。その連載で、MITが「学部では最先端なんて教えない」理由について、こう述べられている。

池上:先端科学や技術は大学4年間で教わることじゃない、卒業する頃には全部古い知識になってしまう。いずれ古くなる知識をただ暗記しても意味がない、というわけです。一見、役に立ちそうな実用的に見える知識が、いちばん使えなくなってしまう、というわけです。

日経オンライン 池上彰「学問のススメ」より
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20130227/244292/?rt=nocnt

この連載は、教養教育の重要性について考察した対談であるが、専門教育についても同じことが言えると思う。専門的なスキルを身につけていく上でも、すぐに役に立ちそうな実用的に見える知識やスキルだけでなく、その専門知識や専門的職業に対しての哲学や倫理といった専門的な教養を学ぶことが重要だと思う。

今、編集やライティングといった「ものづくりの現場」に戻っていて思うのは、あの頃教わったことに、何一つ無駄な知識はなかったということ。画学生であれば、みんなパクったり、模倣したりして作品を作った経験はある。実際に仕事をするようになってからも、あの原稿やイラストは、ちょっと著作権的にグレーかもしれない、そんな迷いの中で仕事をしている。重要なのは、オリジナリティとは何なのかという自分なりの哲学を常に考えて仕事をするという姿勢そのものであり、その作品が生み出されたプロセスが、いかに独自であるかという点だ。そのアプローチ法は、MacやDTPソフトからは学べない。今も私のペン立てにささっている、古びたカラス口が、そんな風に語りかけてくるように感じた。

 

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