I,TONYA 史上最大のスキャンダル

『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル(I,TONYA)』を見た。

世間では危険タックルの問題が物議を醸しているように、「アスリートたるものフェアプレーの精神で競技に臨まなければいけない」という考えは社会全体に浸透されている。しかし、そのフェアプレーの精神が成立するためには、それぞれのアスリート周辺の環境というものにある格差は極力是正されなければいけないのではないだろうか。本当に危険タックルを行なった選手本人が悪いのか。なぜ、そういった行為に及ぶことになったのか。そこを考えていかなければ、問題の根源を解決していくのは難しいだろう。トーニャ・ハーディングによるナンシー・ケリガン襲撃事件についてもそうだ。社会的な貧富の差や、家庭環境、教育環境などが、トーニャの競技人生にどれだけ大きな壁となってはだかっていたのか。事件そのものの罪とは別に、そんな思いに苛まれた。

スポーツとしてのフィギュアスケートと、芸術としてのフィギュアスケート。貴族的な価値観で、スポーツとしてのフィギュアスケートを下品であると見なす、協会関係者。フィギュアスケートの世界でトーニャがぶちあったった壁は、伊藤みどりがぶつかった壁と同様のものである。

そんな偏見や差別のようなものを撥ねとばすかのような映画のシーンが、彼女が全米選手権1位となった演技である。後に剥奪されてしまうこととなる全米1位のパフォーマンスが、トーニャが一番輝いていたときだろう。

友人のFくんも、見てよかったという僕の感想から、この映画を見たそうだが「確かに面白かったが、エンドロールで流れるトーニャ本人が滑っている全米選手権1位となった実際のパフォーマンスや、彼女の表情の方が、映画本編を食ってしまっている」と言っていた。確かに、そうであった。それくらい、そのトーニャはパワフルで、魅力的なのだ。

それはそうと、この映画を見ている最中、前に座っていた男性が頭が画面をずっと邪魔していた。背や座高が高いのであれば、仕方ない。悪気はないはずだから、字幕がかなりの確率で隠れるのはやむを得ないと、自分に言い聞かせた。しかし、そいつが、せわしなく頭を上下左右に動かすので、せっかく文字はなんとか見える角度にこちらも頭をずらしているのに、わざとかと思えるくらいに、字幕を遮る、遮る。僕は、自分が後ろの人の視界に入らないように意識しながらも、前の男が動く度に、自分も頭を動かし字幕を追った。隣の人の物音が気になるといったことは、今までも経験したことがあるけど、こんな、イライラする気分で映画を見るなんてはじめてだ。しかし、この映画の世界に引き込まれていくうちに、しばしば字幕が見えなくなることも気にならなくなっていた。

むしろ、このイライラ感は、トーニャの人生の中にあるイライラ感に近いような気がしてきた。自分が悪いわけでも、周囲に悪意があるわけでもない。人生というものは、生まれ落ちる座席は選べない。自分の目指そうとする、その先の視界を邪魔する人間が、自分の近くに座っているかもしれない。どいてほしいと思っても、その座席に座った人間は、その人なりに自分の人生を生きているのだ。彼や彼女らに思いやりがないのではない。足りないのは教育であり、ドロップアウトしてしまいそうな人を救う社会的なセーフティーネットだ。

輝く才能は、もしかしたら身近なところにあるかもしれない。そんな才能を潰さないように、社会に送り出してあげられる社会的なシステムの確立が、本当の意味でスポーツのすばらしさを享受できる世界なのだと思うのだった。

  •  
  •  
  •  
  •  
  •  
  •  
  •  
  •  
  •  
  •  
  •  
  •  

Leave a Comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA