【読書感想】批評の教室

批評の教室 ー 蝶のように読み、ハチのように書く

『マツコの知らない世界』から著者を認識するに至るまで

批評の教室 ──チョウのように読み、ハチのように書く (ちくま新書)

この本の著者である北村紗衣氏を知ったのは『マツコの知らない世界』のWikipediaの回だ。おそらくその前からTwitterのアカウント(saebou)は目にしていた気がするのだが「この人が北村さん」かと認識したのは番組出演の後だ。Wikipediaは本当によく利用するし、面白い先生だったのでアカウントをフォローした。すると、いろんな人に絡まれているのをよく目にするようになり、いつも毅然としたストロングスタイルで反論しているのを、趣味が悪いが傍目から少し楽しんでいたところがある。『Saebou先生だけはガチ』そんな感じで、たまにツイートを追っていた。しかし、それが劣悪なハラスメントの連続であることに気づくまで、それほど時間はかからなかった。

あまりに粘着質な付き纏いに何かできることはないかと思ってツイートを「いいね!」したり、反論や擁護している人のツイートをリツイートしていたのだが、たいした援護射撃にもなっていないような気がして、以前から興味のあった著作をこの機会に購入して読むことの方が北村先生のHPの回復につながるのではないかと思いAmazonでこの本をポチった訳である。

学生の時にこんな授業に出会いたかった

この本を読んだ率直な感想は「学生の時にこんな授業に出会いたかった」ということ。私は、大学の学部生を2回経験しており、1度目の大学生活は早稲田大学第二文学部の表現・芸術系という専修で学んでいた。もともとは美大志望だったデザイン科の高校生の進学先として、「マンガ論」や「TVドラマ論」といったサブカルチャー学ぶ講座を数多く開講する先駆的な存在だった同学部のカリキュラムは大変魅力的でもあった。

夜学だったことで、外部の若手講師や現場で活躍する専門家が登壇する授業も多く、刺激的な内容も多かった。ただ、当時は今ほどサブカルチャーを研究・批評するといったアプローチは多くなく、それらの講師陣が語る内容は、主観的だったり経験談だったりすることが、ほとんどだったように思う。

漠然と物書きに憧れていたものの、どんな分野で何をどんな方法で表現していくべきかということは、学生生活では掴みきれずに卒業してしまった。脚本家や小説家になるにしても、例えば医学部や法学部といった専門性の高い学部で学ぶ方が良かったのではないかと思うこともしばしばあった。

卒業後も、文学部で学んだことをが「なりたいもの」に対しては、何も役立たないのではないだろうかといった思いは残ったままだった。この「批評の教室」を読んで思ったのは、これが私が文学部で教えて欲しかった知識・スキルの一つであるということ。学生の時に、こんな先生に出会い批評というジャンルに対して理解を深められたなら、もっと違った形の物書きとしての人生もあったのかもしれない、そんな風に思った。

皮肉にも町山智浩氏的な映画批評の後継者だと思った

もう一つの感想は、北村紗衣という人は、町山智浩氏的な映画批評の後継者だということ。北村氏自身も、町山氏の映画批評が好きで、すごく影響を受けているといくつかのインタビューで語っている。だからこそ、北村氏のハラスメント問題に対して、セカンドハラスメントとも思われる発言や、ミソジニー的な発言を繰り返した町山氏の対応があったことに、ひどく心を痛めたことは想像に難くない。

北村紗衣さんインタビュー③ 女の子が死にたくなる前に

本書は、各章の冒頭が映画のセリフや曲の歌詞などのエピグラフ(書物の巻頭などに引用されている銘句)から始まっている。この手法は、町山氏の映画コラムでもよく見かけるスタイルだ。引用する歌詞も、「宝島」的というかサブカルっぽさのある内容だ。モハメド・アリの「蝶のように読み、ハチのように書く」をサブタイトルに持ってくるあたりも、とても町山氏からの影響を感じるのである。

一方で、町山氏のようなエンターテイメント感は少なく、より学術的で論理的な構成になっているので、読み物として消化するには、やや時間を要する。その点は、やはり教育者であり、研究者なのだなと感じた。私は最近かなり本を読む体力が落ちており映画や演劇に関しても詳しくないので、読了まで少し時間がかかってしまったが、映画や演劇が好きなら一気に読めてしまう内容だと思う。

というより、私が読むのに時間がかかったのは、歌詞を引用したエピグラフが出てくる度に、その都度YouTubeやSpotifyで原曲を聞きに行くといった行動をとっていたのもあるのだが。例えば、ミラクルズの「You Really Got A Hold On Me」の歌詞の冒頭

I don’t like you, but I love you

が引用されていると、その曲を聴いて、ついでにビートルズをはじめとしたカヴァー曲までSpotifyで聴くといった感じだった。

いろいろな曲も知ることができて、そんな意味でも面白い本だった。

北村氏は、影響を受けた町山氏とTwitter上で言い争いをせざる追えない状況になったことについて、「不適切な言い方ですが」と前置きしつつも、私の今までの人生の中で一番『オイディプス王』に近い体験だとつぶやいている。

私も、憧れていたというほどでないのだが、映画評論家・町山智浩の映画評論に大きな影響を受けている。友人からの勧めで町山氏の存在を知り、『USAカニバケツ』『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』『キャプテン・アメリカはなぜ死んだのか』『アメリカは今日もステロイドを打つ』といった彼の代表作を読みライブ講演を聞きに行ったこともある。もちろん町山氏の勧める映画を見て感動することもあったし、それ以上に町山氏の書く映画評コラムに人生の一時期を救われたこともあった。その事実は今も変わらない。

しかし、童貞だとか非モテをこじらせ、それを肯定するインセル的ミソジニー的な言動を取る町山氏をはじめとしたサブカル系文化人に、少しずつ成熟しつつある日本社会が拒否反応を示し始めているということも受け止めなければいけないと思っている。

フェミニスト批評やクイア批評は奇をてらっている批評ではない

町山氏的な映画批評のアプローチを取りつつ、町山氏に書けないフェミニスト批評を行っているという点において、北村氏はポスト町山智浩だと思う。北村紗衣の書く批評作品の「友達」の中には、町山智浩の映画コラムがあることは確かだ。

北村氏に対してフェミニストであるというイメージを強く持たれている人も多いが、本書にはフェミニズムについてはほとんど触れられていない。ただ、フェミニスト批評やクイア批評の概略については、批評の歴史を語る中で簡単に触れられている。人種や民族といった視点からのポストコロニアル批評があって、その延長線上にフェミニスト批評やクイア批評といったジェンダーやセクシュアリティを視点とした批評がある。それは、奇をてらっている批評ではなく、批評の歴史を紐解く上で避けて通れないアプローチであるということが分かった。

フェミニスト批評というものが、表現の自由を敵視するものでもなければ、アンチポルノやアンチエロティシズムでないことも本書を読めばわかる。北村氏自身も、本書の中で自身の性的嗜好について言及する箇所もあり、アンチフェミニストが攻撃材料を見つけようと思ってあら探しをして読んだとしても、肩透かしに合うか、返り討ちに合うだろう。極論になるが、例えば、ポルノ作品を団地妻から会社の部下、会社の上司といったように主演女優の役回りの属性から女性の社会進出を辿っていくことでフェミニスト批評することも可能である、という風に私は理解した。

これからなんらかの批評をやっていきたいと思う人なら、北村氏はフォローしておくべき批評家の一人ではないだろうか。

この他にも、数多くの理論やアプローチ法が丁寧にまとめられており、感想として伝えたいことは他にもたくさんある。例えば、本書は北村氏の批評クラスの学生だった飯島弘規氏が協力しているのだが、この飯島氏の映画評というのがとても学生のものとは思えないことに驚いた。しかし、初心者が批評を行う上でテーマを絞って詰め込みすぎないこともポイントだと本書に書かれている。飯島氏は今後プロとして何からの批評活動をされるのではないかと思うので、飯島氏について語るのは、いずれ彼の著作などが出たときに機会を譲りたい。

このように学生が協力しているという点でも「批評の教室」というタイトルに相応しい内容である。そして、プロの物書きやライターを目指す人にとっても、良い先生になってくれる一冊になるだろう。

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