【読書感想】冠(コロナ)廃墟の光

オリンピア1996 冠〈廃墟の光〉 (新潮文庫)

オリンピア1996 冠〈廃墟の光〉 (新潮文庫)

あと十数日経てば、リオデジャネイロ五輪が開催されるわけだが、このところオリンピックに関する悪いニュースが後を絶たない。東京五輪に関連した国立競技場の問題、エンブレム問題、裏金疑惑、リオ五輪に関連した五輪開催危機の問題、グアナバラ湾汚染の問題、ロシア陸上選手団のドーピング問題といった直接的な問題だけではない。ギリシア財政危機やイギリスのEU脱退なども、五輪開催に端を発する都市経済の破綻が一つの間接的要因になっていると考えることもできるのだ。

沢木耕太郎氏は、こうした状況を1996年開催アトランタ五輪について書かれた本書「冠(コロナ)廃墟の光」ですでに予言している。日本におけるスポーツメディアの報道は、どれもオリンピックのメダル獲得数だったり、まったく五輪とは関係無い歌詞のJ-popテーマ曲をBGMに「夢をありがとう」的なお涙頂戴ストーリー作り上げて、陳腐な感動の安売りをしてばかりである。問題が起これば、スポーツ選手がかわいそう、彼ら・彼女らには罪は無いといった論調の批判ばかりで、スポーツそのものや、オリンピックそのものに対する批判的な視点というものはまったく無い。

それは、よく考えれば当然のことなのかもしれない。メディアに登場するスポーツの専門家は、元選手やスポーツライター、スポーツキャスターといった、スポーツ業界の内部で、スポーツが生み出す富を享受することによって、生業を営んでいる人たちだからだ。沢木耕太郎氏は、数多くの傑作スポーツノンフィクションを世に送り出しているが、スポーツライターではない。スポーツに依存しなくても文筆業を営んでいける作家である。だからこそ、スポーツそのものや、オリンピックそのものに対して、批判的な視点で考察を行うことを厭わない。

この本はの序章では、沢木氏がオリンピアの遺跡に訪れ、古代オリンピックに思いを馳せている部分がある。

残された数々の不思議の中で、古代オリンピック最大の不思議とは、やはり、どうしてこのようなものが存在しつづけたのかということであろう。四年に一度戦闘を中止して競技会を行う。勝者はただオリーブの冠が授けられるだけ。どうしてこんなものが千二百年も続いたのか。(沢木耕太郎著 冠 廃墟の光:序章「冬のオリンピア」より)

日本は諸外国に比べて、オリンピックメダリストに対する報奨金が少ないとか、もっとスポーツ選手に経済的な富を与えるべきだという論調を少なからず耳にする。しかし、果たして本当にそうなのだろうか。

本書では、近代オリンピックは1964年に開催された東京大会の以前と以後に分けられると語られている。東京大会は最後の「無垢なオリンピック」だったのだそうだ。その後、メキシコ大会における人種問題、ミュンヘン大会で発生したテロにおける民族問題、モントリオールでのドーピング問題の深刻化が起こる。続くモスクワ五輪では西側諸国がボイコット、ロサンゼルス五輪では東側諸国がボイコットをし、政治的な問題も絡んでくるようになった。そして、アマチュアリズムが支配的だったオリンピック競技が、ロサンゼルス五輪を境に商業化が進み、スポンサーやメディアが力を持つようになったのである。

 

古代オリンピックがなぜ滅びたのか。

かつて、古代オリンピックはオリンピアのみで行われていた。だが、一度だけ、時の権力者であるローマの将軍スラによって、その勝利を祝う儀式の一つとして、ローマに持ち去られたことがあった。それは古代オリンピックの衰退を象徴する大きな出来事であった。(沢木耕太郎著 冠 廃墟の光:序章「冬のオリンピア」より)

 

神々からの祝福とオリーブの冠だけが栄誉であった古代オリンピックが、徐々に賞品や賞金といった金品も出すようになっていく。それが古代オリンピック崩壊につながっていくということが本書では示唆されている。近代オリンピックの第一回大会がアテネで開かれてちょうど100年目のオリンピック開催地が、なぜアテネではなくてアトランタになったのか。そこにも、金と権力が見え隠れする。そして、近代オリンピックもそれと同じ道を辿っているのではないだろうかと、沢木氏は疑問を呈するのである。

 

スポーツが、純粋にスポーツのためのものであるために、もう一度、スポーツに関する金と権力の問題を批判的に見つめ直す必要があるだろう。スポーツという文化全体に富を投資し豊かな社会にしていくことは大切なことだと思うし、今更、アマチュアリズムの時代に戻ることはできないだろう。しかし、一部の競技関係者が権力を握ったり、メディアが競技のルール変更に強い影響力を及ぼしたり、スポーツ選手がある種の特権階級になり巨万の富を得るといったことに対しては、どこかで歯止めを利かせなければいけないのかもしれない。

スポーツ=すばらしい、オリンピック=すばらしいといった思考を一度リセットしなければ、本当に近代オリンピックも崩壊の道をたどるだろう。東京都知事選とリオデジャネイロ五輪が行われる今だからこそ、本書を読むことはとても意味のあることだと思う。

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