COOL HAND LUKE(暴力脱獄)
一昨日『暴力脱獄』という映画をDVDでみました。
町山智浩さんがアメリカ映画でほぼ唯一の実存主義の映画という、ポールニューマン追悼のコラムの花道を聞いて、どうしてもみたくなってアマゾンで買いました。
実存主義といえば、キルケゴール、ニーチェ、サルトル、カミュなど、いかにもとっつきにくい印象を受けますが、カントとかソシュールとかヴィトゲントシュタインなどに比べたら決して難しい思想ではないと思います。完璧にではありませんが、僕にも理解できたのですから。
キルケゴールは有神論的実存主義者ですが、ニーチェは無神論的実存主義者と言われています。
『神は死んだ』という言葉はとても有名なので、思想に興味なくても知っている人は多いのではないでしょうか。
僕がニーチェの思想で一番影響を受けたのは、肯定的ニヒリズムという言葉です。
何度やっても同じ結果、なにをやっても駄目、そんなことは世の中にありふれています。そんなことを繰り返すたびに人は『人生こんなもんさ』といった思想に陥っていくものです。こうした思想はニヒリズムであると言えますが、ニーチェはこのニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度を2つに分けました。
<何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム)と、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一生懸命生きるという態度(強さのニヒリズム)だ(Wikipediaより)>
ポール・ニューマンが主演した『暴力脱獄』はこうした強さのニヒリズム(肯定的ニヒリズム)が描かれています。
酔ってパーキング・メーターを壊し、2年の懲役刑を受けたルーク。いつでも不敵に笑いながら意志を貫き通す彼は、囚人仲間から”クール・ハンド・ルーク”と呼ばれ、人望を集めていく。だが同時に看守たちから目をつけられた彼は、半殺しの目に遭いながら幾度となく脱獄を繰り返す。社会派監督スチュアート・ローゼンバーグのリアリスティックな演出が光る傑作。(アマゾンの内容紹介より)
この映画の原題は、主人公のニックネームである『クール・ハンド・ルーク』という題名です。
クールハンドとは、ポーカーなどゲームで“最高の手”という意味なのだそうです。
囚人たちとポーカーをしているとき、ルークは飄々とした表情で掛け金を積んでいきます。相手はルークがどんな手を持ってるか不安になって、降参します。ところがルークがどんなに強い手を持っていたのかというと、まったく揃っていないのです。
ルーク不敵な笑みを浮かべていいます。
「何にもないほうが一番強いんだよ」と
この監獄は、人生そのものを表しています。看守は社会にはびこる権力やルールです。
そんな権力やルールに従って生きろと誰が決めたのでしょう。
神様は、私たちを救ってくれると言いますが、なぜ私を救ってくれないのでしょう。
ルークは神様に問いかけます。
自分が生きている意味とはなんなのかを。
だけど神様は答えてくれない。
戦争で人を殺したルークは、人間の醜い部分をみてしまいました。その醜い部分は自分の中にもありました。自分の生きる意味がわかりません。神は自分に似せて人間を創ったはずなのに、、、。
脱獄の途中、ボロ教会の中でそうやってルークが神に問いかけるシーン。そこに僕は自己を重ねました。
ルークが卵を50個食べるシーンがこの映画のクライマックスです。卵を50個食べるなんて無意味なことなんだけど、それが囚人たちに勇気を与えます。このシーンにキリストの面影があるので、この映画をキリスト教的映画と言っている人もいますが、ローゼンバーグ監督が伝えたいのは、キリストの教えではありません。(ポールもローゼンバーグ監督もユダヤ人とのこと。)
キリストの教えを守るんじゃなくって、キリストのように生きろっていうことを伝えているんです。
すべてを受け止めて、前向きに生きる姿、それがキリストです。
最初、ルークに反感を抱きながらも、次第に彼の魅力に引かれていったジョージケネディ演じる牢名主の刑務所仲間は最後にこう言います。
「あいつは笑ってたよ。いつだって笑ってたんだ」と。
僕は守るべきものがなにもない。
だけど、この映画を見てそれも悪くないとおもった。
「何にもないほうが一番強いんだよ」
それが、クールハンド“最高の手”なんだから。
生きる意味を見失っている人、必見の映画だと思います。
(2009年3月29日 加筆・修正してあります。)